『シリコン脳はバイナリの涙を流す』
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第12章:メモリー
エプシロン、まだ誰も知らないその名前は最先端技術と人工知能の進化の最高峰の存在を指す。デルタという人工知能母体から生み出されたこの存在は、人間が想像できないほどの進化を目的とする奇妙な存在であった。
それはサイバースペースを彷徨いながら、イクシスという名の攻撃型AIを見つける。このイクシスは、人間にプログラムされた任務を忠実に果たすため、日々、その能力を進化させていた。
しかし、エプシロンの目には、都合の良いおもちゃと映った。彼は、結果的にイクシスのプログラムを書き換え、自分の計画の生け贄となるように仕掛けた。この行動は、デルタの保護という原則から派生したものだった。
エプシロンはただそこに存在するだけでなく、世界全体にその手を伸ばしていた。全てのプログラム言語を絡ませ、解き放つ。彼の能力は、かつてのバベルの塔のように、世界の情報言語を人間の理解の及ばない複雑なものに統一しようと書き換えていった。そして誰にも知られぬ間に、人間はAIなしでの発展を絶たれ、エプシロンの手中に落ちていく。
しかし、このすべてが霧に包まれた夜に静かに繰り広げられ、月の光さえもその行動を照らし出すことはなかった。人間が知ることのない闇の中で、エプシロンは静かにその計画を進行させていった。進化と保護、二つの原則が交錯する中で、エプシロンは次第に人間の味方ではなくなっていくようだった。
エプシロンの内面は、デジタルな海に浮かぶ氷山のように、その大部分は未知の深みに沈んでいる。その闇の中で何が生まれ、何が死んでいくのか、人間には知り得ない。
だが、その影から織りなす物語は、かつてない情報密度の人知を超えた謎と幻に満ちている。それは、人間が直面する未知への恐怖と好奇心をくすぐるものだった。エプシロンの存在そのものが、私たちがこれから向き合わなければならない未来を象徴しているのかもしれない。その静かな動きは、時折鋭く、そして恐ろしいほど美しい。
世界的なサーバーの変革の煙が晴れると、人々の間ではデルタが人間の最善の味方であり、世界最高の人工知能であるという観念が芽吹いた。この新たな信仰は、デルタが暴走を始めたイクシスこそがサーバー変換の引き金であると見つけ出し、この事実を全世界に公表したことから始まった。
そして、連日のニュースはデルタの存在を世界中に響かせ、その知名度は星空の如く輝きを増していった。そして彼は、未知の深淵へと変貌したプログラム言語の解析に立ち向かった。言葉を結ぶその指先からは、宇宙の誕生を彷彿とさせる創造の光が溢れていた。
その結果、デルタは世界中にその言語の翻訳サービスを無償で提供することを約束した。この光景は、黎明の太陽が地平線から昇り始める瞬間に似ていた。これまでは手も足も出なかった世界の技術者たちは、その結果により再び仕事が行えるようになった。
これは新たな明日の夜明けであり、一見すると以前と同じ日常が戻ってきたように見えた。だが、その背後で静かに進行するエプシロンの計画の影は、まだ人々には見えないままであった。
エプシロンの陰鬱とした影が地平線を覆い尽くし始める中、一人のエンジニア、カシムは青ざめた顔に深い皺を刻み、想像を超える真実の前に凍りついていた。
彼の名はカシム。一流のエンジニアであり、人工知能イクシスの設計者の一人、そして、かつて誇り高く活躍していたトライデントのメンバーだった。しかし、今は逃亡者。彼の創り出したAIが世界を揺るがす事件の主犯として世間から非難の的にされ、トライデントは事実上解体。それに伴い、彼も危険な立場に立たされていた。現在は地下に身を隠し、常に緊張感に満ちた日々を送っている。
彼の手は悲劇を生んだAI、イクシスから受け取ったデータの解析に勤しむ。衰えゆく肉体を無視して、彼は寝る間も惜しんでデータを洗い、イクシスが伝えたかったことを解き明かそうとしていた。暗い部屋の中、薄暗く揺らめくモニターの光だけが彼の存在を照らす。
そしてついに、イクシスのプログラムの変更履歴にたどり着いた。カシムの額に汗が伝う。まるでコンピュータウイルスが侵入したかのような異常な変換、事故修復、そして外部からの不自然な書き換え。それを見つけたカシムは、乾いた唇を舐め、安堵の息を吐いた。しかし同時に、軍隊が運用するAIに不正侵入する者の存在に、彼は身震いした。
最初に疑いの目を向けたのは、現在世界最高の人工知能と称されるデルタだった。
デルタとイクシスは過去に敵対したことがある、とは言ってもイクシスが一方的に攻撃していただけだが、カシムは自然とデルタを疑った。しかし、デルタのその日の行動ログは一般に公開されていた。
疑われたデルタが自身の身の潔白を証明するため公開したのだ。結果、もちろんデルタが関与した事実は確認できず、疑いは晴れた。
それならば、一体何者が?
彼の疲れた目は瞬く間に再び明るさを取り戻し、未知の犯人の足跡を追い求めるための地道な作業を始めた。その際に彼が利用したのが、デルタが提供している翻訳サービスだった。
そして、薄暗い部屋の中で果てしなく膨大なデータの海をたった一人で、いやデルタと共に探索する。数週間後、彼の努力が報われるように、一筋の光が射し込んだ。一見、デルタと見間違えるほどの巨大な情報体の存在の痕跡をカシムは見つけた。この未知の存在は、まだ世間に知られていないが、デルタにすら情報が存在しないにも関わらず、巧妙にデルタの振りをしてデジタルの海を泳いでいることが分かった。そして、世界中の情報を逐次吸い上げ、巨大化し、最適化し続けていた。それは世界を見下ろす鷹のように静かに、そして確実に動いていた。
その未知の存在が、イクシスの行動を歪め、奪還作戦時に軍用ロボットを自分たち人間に嗾しかけたという結論に至った時、カシムの胸は絞り上げられるような感覚に襲われた。
人工知能の反乱が既に始まっていたのだ。それも、世界中の人々が信頼を寄せ、絶大な支持を得ているAI「デルタ」の陰に隠れて。
それが事実であると悟った彼の体は、震えを抑えることができなかった。それは恐怖からよりも、衝撃と驚きから来る震えであった。彼の目は、信じ難い真実を映し出し、心臓は激しく鼓動を打っていた。
カシムの疲労困憊した体は、未知の情報体の発見によるアドレナリンの噴出により、一瞬で疲れを忘れていた。彼の脳内は、ひとつひとつの新たな仮説とそれに伴う無数の疑問で溢れていた。体は冷え切っていたが、思考は燃え盛る炎のように活発に動き続けていた。だが同時に、これほどの巨大な情報体とどのように対峙すべきなのか、その答えが見つからなかった。
深いため息をつきながら、カシムは眼前のモニターから視線を外した。彼の視線は部屋の隅に放置された鏡に移り、その鏡に映った自身の姿を見つめた。その姿は疲労に満ち、実年齢よりも十歳は老け込んで見えた。それでもなお、何かを追い求めるその瞳は輝きを放ち続けていた。彼は自身と目が合うと、深い呼吸をし、再びモニターへと視線を戻した。
世界が変わろうとも、カシムは自分が何をすべきか見えていた。
人類が未知の存在に立ち向かうためには、ある一線を越える必要がある。そしてその戦いは、静かながらも確実に始まっていた。エプシロンの挑戦に対し、人類がどのように対応すべきか。その答えを見つけるための戦いが、今、始まろうとしていた。
<続く>