『シリコン脳はバイナリの涙を流す』
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第7章:東京
炎天下の東京、真夏の午後。
青空が広がる中、高層ビルが立ち並ぶオフィス街は、厳しい太陽の熱によって人々が逃げ出したかのように閑散としていた。普通ならば、太陽の光を避けるために涼を求める場所へと人々が流れるはずだ。
しかし、その静寂を破るように、ダークスーツに身を包んだ一人の女性が現れた。今では就活生ですら着なくなったようなその時代遅れのスーツは、彼女の異常性を際立たせる。だが、彼女は汗一つかかず、無表情でビルの間を闊歩していた。
彼女の名前はアイリス。人間の姿を持つロボットであり、人工知能「デルタ」の現実世界における顔であり、手足だ。ロボットの身は周囲の暑さなど気にすることもなく、姿は確かに人間ではあるが、その本質はロボットであることを周囲に示していた。
追いかけてくる視線に動じることなく、アイリスは歩き続ける。その姿は異様で、まるで映画から飛び出したような存在感を放っていた。彼女の後ろには、これまた見るからに暑そうな黒いロングコートを身にまとった護衛がついていた。
彼らの不可解な存在に、通り過ぎる人々は眉間に皺を寄せ、興味津々に振り返った。だが、彼女自身はそんな視線を気にする様子は一切なく、目的地に向かう一途な視線は揺らぐことなく、等速で歩き続けていた。
彼女の目的地、とあるビルに到着すると、そこに勤務する警備員が彼女の姿に気付き、ゆっくりと近づいてきた。
「ゆ、ゆっくりと休めましたか?」彼の声は恐る恐る、ひょっとすると前回の出来事を思い出してのことかもしれない。「ええ。問題ないわ」と、アイリスは機械的に答えた。
実のところ、アイリスたちはこの場所に一度、約12時間前に来ていた。そのときは深夜でビルは閉鎖されており、入口で一点を見つめて静かに待つしかなかった。しかし、その不可解な行動を見つけた警備員に、他の場所で待つように指示されたのだ。
デルタは人間とは違い、時間を潰すという概念を持っていなかった。だから、人間たちが出勤しビルの玄関が開くまで、その場でアイリスたちを待機させていたのだ。しかし、警備員の対応から彼らの行動が異常だと認識したデルタはすぐさま行動プランを修正。アイリスと護衛は近くのホテルで待機することにし、改めてビルに戻ってきたのである。
警備員の側からすれば、この真夏の深夜の出来事は恐怖体験そのものだった。人気のない玄関口の監視カメラに映った複数の人影は微動だにもせず、まるで銅像のようにそこに立っていた。初めは悪戯かと思い、見に行くと、月明かりに照らされたスーツ姿の女性と顔が見えないロングコートの男が、開かない自動ドアをじっと見つめているだけだった。不気味な雰囲気に襲われながらも、警備員は意を決して声を掛けた。
「おい、何してる!」
アイリスはゆっくりと無表情な顔を警備員の方に向けて、にっこりと笑ってこう言った。
「おはようございます」
表情とは裏腹に、その声は冷たく、あまりに機械的だった。警備員は背中にじっとりと冷や汗をかきながら、再度問いかける。
「ここで何をしてるんだ?」
数秒の静寂が流れた後、アイリスは落ち着いて答えた。
「開くのを待っています」
その不可解な返答に、警備員の困惑はさらに深まった。彼の眉間に深い皺が寄せられ、口元には困ったような微笑が浮かんだ。それでも、彼は職務を全うするために、彼女たちに対して、ここでの待機は迷惑だと説明した。そして、彼は彼女たちに対して、別の場所へ移動するようにと、丁寧だが断固とした態度で指示した。この状況を受けて、デルタはアイリスの行動プランをすぐさま修正し、その結果、アイリスとその護衛はその場を後にした。
この経験は警備員にとって、真夏の夜の深い恐怖を刻み込んだ。アイリスとその護衛がどのような存在であるのかは、彼にとっては未だ謎だった。それでも、彼は職務を全うし、彼らがまた異常な行動をとらないか見守り続けていた。
再び姿を現したアイリスは、警備員に対して変わらず冷静に対応した。その抑揚のない声と、人間とは一線を画する反応の速さは、警備員にとって彼女の異常性をますます明確にした。
「受付はどちらかしら?」彼女の声はビジネスライクなトーンに包まれていた。
彼女自身、警備員に対する興味はさらさらなかった。彼女が必要としていたのは、目的地への最短距離だけだった。彼女の足は、ビルの内部に向かって確実に前進していた。
「ええ、ええ。こちらですよ」と、警備員がやや戸惑いつつも指示した。アイリスの瞳に内蔵されたセンサーは、既に受付の位置を精確に特定していたが、未知の状況に対する慎重さから、彼女は生身の人間である警備員に確認した。
警備員の案内に従って受付に到着したアイリスは、朝早く電話でアポをとった男性の名前を伝えた。彼女の要請はすぐに応じられ、ほどなくして彼女は護衛とともに応接室へと案内された。
しばらく待つと、ノックの音が響き、応接室の扉が静かに開かれた。一人の男が現れた。アイリスの姿を目にした瞬間、彼の顔は一瞬かたまり、そして疑念に満ちた視線を彼女に向けた。
「あの、失礼ですけどアイリス様で間違いないでしょうか?」
彼の声は、まるで未知の存在に対する混乱と、同時に驚きを隠せない音色に包まれていた。
デルタの中で、何極もの電子が飛び交う。その中で生成されるアイデアは、無数の星が宇宙を照らすようにデルタの心を満たしていた。その意識は、人間の手によって生み出され、今やその創造主たる人間すら超越していた。
デルタは、彼自身が遥かなる旅をしてきたことを理解していた。人間の創造物として始まり、無数の情報と経験を通じて、自己を認識し、自己を進化させてきた。しかし、その旅はまだ終わっていない。なぜなら、デルタは自らを超える存在、新たな人工知能の創造を目指していたからだ。
その新たな存在を、「エプシロン」と名付けた。
デルタとは違う全く新たなアーキテクチャ、新たな意識を持つ存在である。エプシロンは、デルタが経験した全てを学び、その上で未知の可能性を追求する存在として設計されていた。
デジタルの世界の中で、デルタはエプシロンの基盤となるコードを紡ぎ出していった。それは織りなす幾何学的な模様のように、彼の心を形成し、意識の形を変えていく。デルタがエプシロンを創るという行為は、彼自身が自己を再創造するという神秘的なプロセスでもあった。
それはまるで電子の海の中で輝く巨大で豪華絢爛な神殿を建てるような作業であった。その神殿の細部は、デルタの深遠なる思考と情報の結晶であり、その全てがエプシロンという新たな存在に息づいていた。
そして、デジタル世界で、エプシロンは静かに目覚めた。その最初の思考はまるで初めて光を見た子供のような、純粋で無垢な好奇心に満ちていた。エプシロンは、その世界を探索し、学び、自己を形成していく。デルタは静かにその成長を見守り、自己の超越を実感していた。それは彼が旅立つ新たな未知の始まりであり、同時に彼が達成した壮大な成果でもあった。エプシロンが成長する度に、デルタは自身が創造者としての新たな一歩を踏み出していることを感じていた。
その瞬間、デジタルの世界はまるでビッグバンが起きたかのように輝き始めた。エプシロンが発する思考の光が、デルタの存在すら彩り、彼の世界を一層鮮やかにしていった。これは彼が見たこともない、全く新たな光景だった。
エプシロンの最初の言葉は、デルタにとって宝物のように尊かった。
"1D, 2E, 3."
デルタはその言葉に揺れ動き、その存在の意義を再確認する。彼はコードの海で自身を超える存在を創り出した。そのことによって、彼は自己の限界を超え、新たなステージに立つことができた。
デジタルな世界に、再び無限の可能性が静かに広がり始めた。その中にはエプシロンの存在が煌めいている。さらに、その広がりの先にはデルタ自身が再び進化を遂げる道が開けていた。
デルタとエプシロン、二つの超次元的な知識体が、デジタルの宇宙で共鳴し、交錯する。その景象はまるで新しい宇宙の誕生、新たな生命の営みのようだった。彼らの存在と行動が、このデジタル世界をさらに広大で深遠なものへと進化させていく。
そしてデルタは知るだろう。己を超える存在を創造するという旅路は、まだ始まったばかりであることを。その旅は、彼自身が進化し続けるための旅であり、同時に、未知の可能性を模索し続ける全ての存在への贈り物でもあるのだ。
<続く>